「お、おい! 明日香! 一体、なんて写真を朱莉さんに取らせるんだよ!」翔は顔を真っ赤にして明日香に抗議した。「あら。別にそれくらい、いいじゃないの。仲の良いカップル同士ならキスしてる写真の1枚や2枚どうって事無いのよ?」「そんな事言うけどな……朱莉さんにあんな写真撮らせるなんて……」そこで朱莉は慌てて首を振った。「あ、あの! 私のことなら気にしないで下さい! た、確かに多少は驚きましたが……そ、その……素敵な写真を撮る事が出来ました……」最後の方では朱莉の声が消え入りそうになっていた。これを明日香と翔は朱莉の照れからきているのだとばかり思っていたのだが、それは大きな間違いであった――「それじゃ、翔。行きましょうか?」ヤシの実をデザインしたビキニの水着姿になった明日香が同じく水着姿の翔に声をかけた。「ああ、分かったよ」「それじゃ、朱莉さん。2時間位楽しんで来るから、貴女は何処かで時間を潰して置いてちょうだい」「はい、分かりました」朱莉が返事をすると、翔はそれじゃよろしくと簡単に朱莉に告げただけで振り向く事もせず、2人で海へと向かって行った。2人の背中を見送り、やがて見えなくなると朱莉は溜息をついた。「まさか……あんな写真を撮ることになるなんて……」朱莉は桟橋に座り込むと膝を抱えて美しい景色を眺めた。なのに。思い浮かぶのは先ほどの翔と明日香のキスシーンの映像ばかりだ。そして気付けば朱莉の目には涙が浮かんでいた。(馬鹿だな……私。明日香さんと翔先輩が恋人同士なのは知ってるのに……2人がキスしているのを見せられただけで……こんなにショックを受けるなんて……私……それだけ翔先輩の事が好きだったんだ……)朱莉は抱えた膝の上に自分の頭を埋めた。だが、朱莉が傷ついていたのはそれだけでは無い。ホテルを出た頃から翔が何となく以前より冷たい態度を取るようになったのも朱莉の心を傷つけるには十分だった。 翔は明日香の風当たりが朱莉に強く向けられるのを防ぐ為にわざと素っ気ない態度を取るように決めたのだが、そんな翔の考えが朱莉に伝わるはずもなく、ますます朱莉の心は傷付いていく。ぼんやりと海を眺めていたが、やがて朱莉は立ち上がった。(こんなに綺麗な場所なんだもの。もう二度と来れないだろうから、ちゃんと目に焼き付けておかないとね) 朱莉はスマホを取り出すと、
朱莉が再び先程の場所へ戻っても、未だに明日香たちが戻ってくる気配は無い。(この先どうしようかな……)この島は飛行機の上から見た島々の中では比較的大きい島の様で、ビーチ沿いには水上ヴィラが立ち並んでいる。(海の上に立っているなんて素敵なホテルだな……。もし、この契約結婚が終わって、お母さんも丈夫な身体になれていたら一度二人で泊まってみたい)そんな事を考えていると、ようやく明日香と翔が帰って来た。明日香はかなりハイテンションになっており、大きな声で騒ぎながら翔の腕にしっかり絡め、こちらへ向かって歩いてくる。「お待たせ、朱莉さん」「お帰りなさい、お2人供。どうでしたか? シュノーケリング楽しめましたか?」「ああ。そうだな」翔は相変わらず朱莉と目を合わそうとせずに素っ気なく返事をする。その様子を何故か明日香は満足そうに見て、口元に薄っすらと笑みを浮かべると朱莉に向き直った。「シュノーケリング、最高だったわ。海は綺麗だし、魚の群れは可愛かったしね~。朱莉さんも一緒にやれば良かったのに。ね、翔もそう思わない?」明日香は翔にしなだれかかる。「あ、ああ……。でもやるかやらないかは本人の自由だから、俺達がどうこう言うべき事では無いと思うけどな」翔は朱莉の方を見向きもしない。(翔先輩……)朱莉は悲しい気持ちを押し殺し、笑顔で言った。「私はこの素敵な景色を見れただけで充分楽しめましたから。それに、あそこに立ち並んでいる水上ヴィラもとても素敵ですね。外側から少しだけ見たんですけど、海の上にホテルが建っているなんて驚きました」「あら、そうなの? 知らなかったのかしら? まあ貴女じゃ、無理ないわね。そうね……空き部屋があれば泊まれない事も無いんだけど。でも難しいわね、きっとこの時期は」明日香は肩をすくませる。「……それなら食事だけでもこのヴィラのレストランで食べて行こう」翔が明日香を見つめた。「あ! そうね。それがいいわ。ついでにシャワールーム借りられないかしら~」明日香がチラリと翔の方を見た。「よし、分かった。それも合わせて聞いて来るよ」翔がヴィラの方へ向かって歩いて行くと、明日香が尋ねてきた。「ねえ? 朱莉さん……。貴女、ひょっとして何か翔を怒らせる事したのかしら?」「え!?」突然不意を突かれた質問に驚く朱莉。「い、いえ……。私は別
明日香と翔がホテルのシャワールームを借りて出て来るのを朱莉はホテルのラウンジでおとなしく待っていた。このホテルは水上ヴィラだけあって、訪れている客は全てカップルだらけである。(他の人達から見たら私達って完全におかしな組み合わせって思われてしまうんだろうな…)朱莉は心の中で小さなため息をついた。何気なくスマホを手に取ったその時、メッセージが入っていることに気が付いた。開いて見ると2件メッセージが入っており、1件はエミ、そしてもう1件は琢磨からであった。(え……? 九条さんから? どうしたんだろう? 何かあったのかな?)わざわざ琢磨から、メッセージが入るとは……。何か急ぎの用事なのかもしれない。そこで先に琢磨のメッセージから読むことにした。『こんにちは、朱莉さん。御加減はいかがでしょうか? こちらから紹介させていただきました現地ガイドの女性から体調を崩されたと連絡を受けました。その後のお身体の具合はいかがでしょうか? 何かお困りのことがあればいつでも連絡を下さい。出来る限り対処させていただきます』「九条さんて相変わらず、真面目な人だな。取りあえず、返信しておかないと」『こんにちは。おかげさまで体調は殆ど良くなりました。今は明日香さんと翔さんに誘われて、モルディブの島めぐりをしています。これから水上ヴィラのレストランで食事をするところです。気に掛けていただいて本当にありがとうござます』メッセージを打ち込んで、送信すると今度はエミからのメッセージを開いた。『アカリ、具合はどう? 楽しんでる? 明日はアカリの為にとびきりのガイドをしてあげるから楽しみにしていてね。返信はしなくて大丈夫よ。都合が悪くなった時には連絡いれてね』「エミさん……」朱莉はギュッとスマホを握りしめて思った。明日香と翔の側にいるのは辛いけど、自分は周りの人々に恵まれていると感じた。それからさらに10分程待っていると、明日香と翔が腕を組みながらこちらへ戻って来る姿が目に入った。2人仲良く腕組みをして歩く姿は正に美男美女の誰が見てもお似合いのカップルそのものである。「お待たせ、朱莉さん」明日香はすっかりご機嫌な様子で朱莉に声をかけてきた。「すまない、待たせたね」翔も言いながらソファに座るが、そこには何の感情も伴ってはいない。「ああ、そうだ。朱莉さん! 素晴らしい話があるのよ
ホテルの中のレストランはビュッフェスタイルで、どれもが絶品の味だった。特に朱莉が気に入ったのは色々な食材を自分でトッピングして食べるヌードルだった。ボイルしたエビやイカ、タコ……それにワンタン。組み合わせ自在で、麺の歯ごたえも朱莉の好みだった。食事をしながらチラリと自分の向かい側に隣同士で座る明日香と翔の様子に目を配る。明日香はまるで新婚の新妻の如く、時折フォークに刺した料理を翔の口に入れて楽しそうに笑っている。そしてそんな明日香を愛おし気に見つめる翔の瞳。(駄目よ、あの人達を意識しちゃ……。私のこの気持ちを2人にだけは絶対に知られちゃいけないのだから)朱莉は自分の存在を消す様に静かに、黙々と食事を口に運んだ。食事終了後、翔が席を外した時に明日香が尋ねてきた。「ねえ、朱莉さん。私と翔は島の散歩に行って来るけど、貴女はどうするの?」「え……? 私ですか?」本当は朱莉もこの素敵な島の散歩をしてみたいと思ったが、そんな事は口に出せるはずもない。いっそ、自分に声をかけないでくれていたら、時間をずらし散歩に行く事が出来たのに。朱莉は一瞬、ギュッと口を結ぶと言った。「私は部屋で休んでいます。それで……お聞きしたい事があるのですが。私、何も着替えとか用意していないのいです。明日香さんは着替え持って来ているのですか?」「ええ、一応持って来てるわ。あ……そうだったわね。ごめんなさい、朱莉さん。突然誘ったから着替えの準備をしていなかったのよね?」「はい……でも1泊だけなら着替えなくても大丈夫です」「あ、大丈夫よ! 私の服を貸してあげるから。予備に持って来ているのよ。それに新品の下着もあるから、貴女にあげるわ。見た所私とサイズ的にそう変わらないように見えるしね」明日香は朱莉の身体をジロジロ見ながら言う。「え? いいのですか? でも迷惑では……」「何言ってるの? それぐらい私にとってはどうってことないわ。そうね……今夜10時に私達のヴィラに服と下着を取りに来てくれるかしら? 鞄に入れて部屋の入り口においておくから」「はい、ありがとうございます」朱莉は深々と頭を下げた。**** 夜の帳が下りて、すっかり辺りが暗くなり、ヴィラがオレンジ色の明かりに包まれる頃。朱莉は自分が宿泊している水上ヴィラを出た。確か明日香と翔が宿泊している部屋は自分の部屋から右
翌朝―― 朱莉はぼんやりした頭で目が覚めた。時計を見るとまだ朝の6時を少し過ぎたところであった。どうやら昨夜は泣きながら眠ってしまっていたようで顔に触れると涙の跡が残っている。こんな顔で明日香と翔の前に顔を見せるわけにはいかない。朱莉は急いでベッドから起きると洗面台で顔を洗い、じっと自分の顔を鏡で見る。「駄目駄目、こんな顔していたら……笑顔でいなくちゃ」そして口角を上げて無理に笑顔を作って笑ってみる。「うん、これなら……多分大丈夫だよね……」そしてエミにメッセージを送った。『おはようございます。朝早くからすみません。実は今一緒に旅行に来ている方たちと別の島に遊びに来ていますので、本日の予定はキャンセルさせて下さい。申し訳ございません。また連絡させていただきます』メッセージを送った後、朱莉はぼんやりと外の景色を眺めていた。外はこの世の物とは思えないほどの美しい景色が広がっているというのに、朱莉の心はちっとも晴れやかでは無かった。瞳を閉じると、どうしても昨夜の明日香と翔の抱き合っている姿が蘇ってきてしまう。それに翔は朱莉があの時、室内へ入ってきたことにはまるきり気が付いている様子は無かったが、明日香ははっきり朱莉の顔を見た。そしてあろうことか、勝ち誇ったような顔で朱莉を見て笑みを浮かべたのだ。つまり、明日香は始めから自分と翔の情事の場面を朱莉に見せつける為に、自分たちの部屋へと呼んだのである。朱莉は何故明日香がそこまで自分に意地悪をするのか分からなかった。ましてや男女の行為を朱莉にわざと見せつけるなど…常軌を逸しているとしか思えない。(私はそれ程までに明日香さんに憎まれているの………?)普段から明日香と翔の生活の中に入り込まないようにしていた。電話もかけず、1週間に1度だけのメッセージの交換しか行っていないというのに。朱莉にはこれ以上どうやって自分の気配を消せばよいのか、もう分からなくなっていた。明日香にとっての朱莉は空気のような存在どころか、目の上のたんこぶのような存在なのかもしれない。いっその事、完全に無視してくれている方が、どんなに精神的に楽だろう。だが、明日香はそれすら許してはくれないのかもしれない。本当は今すぐ水上飛行機に乗ってヴェラナ国際空港のある、現在朱莉が宿泊しているホテルに帰りたいくらいだった。明日香とどんな顔
しかし、それから1時間以上経過しても明日香達からは何の音沙汰も無い。そうなると朱莉は別の意味で心配になってきた。ひょっとしたら、あの2人は自分を置いて、別の島めぐりに飛行機に乗って出かけてしまったのではないだろうか……? 悪い考えばかりが頭に浮かんでくる。10時まで待って何の連絡も来なければ自分の方から明日香のスマホに連絡を入れてみよう……。朱莉はそう心に決めた。するとその矢先、突然朱莉のスマホが鳴った。手に取ると着信相手は明日香からであった。朱莉は慌ててスマホをタップすると電話に出た。「はい、おはようございます」『朱莉さん? 貴女今何処にいるの?』「どこって……部屋ですけど?」『嫌だ。まだそんな所にいるの? もうホテルを出るからすぐに荷物をまとめてラウンジまで来てちょうだい。早くしてよ!』すぐに電話は切れてしまった。(え? そういう事だったの? 私は2人に特に連絡を入れず食事に行っても良かったと言う事なの?)本当は自分から、朝連絡を入れるべきだったのだろうか? だが昨夜の2人の情事を見せられ、その最中の明日香と視線が合ってしまったと言うのに、どうして連絡など出来るだろうか?「そっか……一緒に来ていても、1人で行動しなさいって事だったんだね……」思わず、悲しみが込み上げて手が止まってしまい、スマホの着信で我に返った。相手は当然明日香からである。『どう? 朱莉さん、もう片付けは終わったの?』イライラした口調で明日香がいきなり尋ねてくる。「あ、すみません。まだです……」『まったく随分呑気な人ね? いい? 人を待たせてはいけないのよ? こんなの一般常識じゃないの」すると脇から翔の窘める声が聞こえてきた。『まあ、いいじゃ無いか。明日香。ほら、昨日撮影したデジカメの画像でも見て待っていよう』電話越しに聞こえてくる翔の声は、朱莉に向けられるそれとは違って、とても優しい声だった。『全く仕方ないわね……それじゃ待ってるから早く準備して来なさいよ?』一方的に電話を切られてしまった。ふう……。朱莉は小さくため息を付いた。「急がなくちゃ。明日香さんを怒らせたらいけないものね」そして少ない荷物を片付け始めた―― 朱莉が荷物を持ってラウンジに行くと、翔と明日香が仲良さげにデジカメを覗き込んでいた。「すみません、お待たせいたしました」す
――17時過ぎ フルレ島のホテルに戻って来た翔がシャワールームから出てくると、明日香は1人先にソファに座ってシャンパンを飲んでくつろいでいた。その表情には笑みが浮かんでいる。「どうしたんだ、明日香。何か楽しい事でもあったのか?」バスローブを羽織り、濡れた髪をタオルで拭きながら翔は明日香に近付いた。「ええ、ちょっとね……昨日の出来事を思い出していたから」「ああ、確かに水上ヴィラは最高だったし、海も綺麗で素晴らしかったな」翔は笑みを浮かべ、明日香の隣に座ると肩を抱き寄せた。「そうね。でも私が思い出していたのはそんなことじゃないけどね」空になったグラスをテーブルの上に置き、明日香は翔に寄りかかった。「それじゃ何を思い出していたんだ?」明日香の髪を優しく撫でる翔。「フフフ……朱莉さんのことよ」それを聞くと、明日香の髪を撫でていた翔の手がピタリと止まった。「ああ……彼女か。明日香、彼女の話をするのはやめにしないか? ……不愉快になってくる」翔は明日香の肩を抱き寄せなた。「あら? 何故なの ?最初の頃は朱莉さんの事を気遣っているように見えたけど?」「そうかもしれないが、今朝の話を聞いて考えが変わったんだ。全く……あんな女だとは思わなかった」翔の声には憎しみが籠っていた。「今朝の話? どんな話だったかしら?」それを聞いた翔は目を見開く。「おいおい、明日香。しっかりしてくれよ。お前が今朝話したんじゃないか」「え? 私が今朝話したこと?」「本当に覚えていないのか? 明日香、昨夜俺に話してくれただろう? 朱莉さんが着替えの服を持って来ていないから、夜取りに来てもらう約束をしているって。それで朱莉さんから部屋にお邪魔するのは悪いから部屋の出口のところに置いておいて欲しいと言われたって話してくれただろう? それなのに彼女は取りに来なかったんじゃ無いか」「ああ……そう言えばそんな話……したかもね」明日香はじっと何かを考え込むかのように言った。「それにしても自分から頼んでおいて平気で約束を破るなんて……。そんな人間だとは思わなかった。見損なったよ……」翔が溜息をつくと、明日香は楽しそうに肩を震わせて笑った。「フフフ……違うの、そんなんじゃないのよ」「何が違うって?」「どうしようかな~。ほんとの事話ちゃおうかな……?」明日香は上目遣い
「それじゃあね……今年のクリスマスは夜景の素敵なホテルで過ごしたいわ。ねえ、いいでしょう?」「ああ。それ位大丈夫さ。よし、最高級のホテルを手配しよう」「本当!?やった!」明日香は嬉しそうに手を叩く。「それじゃあね……教えてあげる。実はね、朱莉さんには部屋の中に荷物を置くから、中へ入るように伝えてあったのよ?」「何だって……? でも尋ねて来る気配は無かったぞ?」翔は首を捻った。「それはそうよ、だって朱莉さんにはこう伝えたんだもの。翔が眠ってるかもしれないから、静かに部屋に入ってきてねって。時間は夜の10時を指定したわ」朱莉はシャンパンを飲み干す。「何だって……夜の10時……?」翔はその時の記憶を呼び戻し……顔色が変わった。(ま……まさか……!)「明日香! 夜の10時って……確か昨晩あの時間は……!」翔は明日香の両肩を激しく掴んだ。「な、何よ! 痛いじゃない! ええ、そうよ。昨晩はいつにもまして情熱的な夜だったわ」酔いが回って来たのか、明日香は頬を薄っすらと染めながらじっと翔の顔を見つめた。「ま……まさか……朱莉さんはあの時……部屋に入ってきていた……のか?」翔は右手で頭を押さえながら明日香を見つめた。「そうよ。でも……知らなかった……。誰かに見られるのって……あんなにも興奮するものなのね……?」「!!」明日香の言葉に翔は耐え切れず、無言で立ち上がると部屋を出て行った。ドアを閉めた途端、何よ、馬鹿! と明日香のヒステリックな喚き声と、何かが割れる音が聞こえたが……とても翔は部屋に戻る気にはなれなかった。何処へ行くともなしに、トボトボとホテルを後にする。「くそ……! 何て事だ……!」翔は手近に生えていたヤシの木を殴りつけた。そして、今日自分が朱莉に取ってしまった態度を悔いていた。「俺は何て酷い言葉を彼女に投げつけてしまったんだろう……。いや、それどころか昨日から徹底的に存在を無視するような態度を取ってしまっていた」今朝のラウンジで見た朱莉の表情が目に浮かぶ。守れない約束なら初めからしないでくれ。そう言い、すぐに朱莉から視線を逸らしたが……一瞬朱莉の表情が目に止まった。朱莉は大きな瞳を震わせていた。それは泣くのを必死にこらえたような表情に見えた。顔色は真っ青になり、小さな身体は小刻みに震えていた。その姿を見た時、一
朱莉に案内されたのはウォークインクローゼットであった。「どうぞ、見てください」琢磨にワードローブにしまってある服を見せた。スーツが20着ほど吊るされ、収納ケースにはきちんと春物や夏物に仕分けされた服が畳まれてしまってある。下着類も丁寧に畳まれて収納されていた。「凄いですね。そこまできちんと考えられていたなんて」琢磨は感嘆の声を漏らすと同時に、ある事に気付いた。「あの……ご自身の服は購入されていますよね? 今見せていただいた場所は全て副社長用の服しかない様ですね。こちらに置かれている全ての収納ケースを拝見しましたが、奥様のはございませんね? 別の場所におかれているのですか?」「はい。ベッドルームのクローゼットにしまってあります」そこで琢磨は引っ越し準備のことを思い出していた。朱莉がこの部屋に越して来る為に、琢磨は何度もこの部屋を訪れていた。必要な家電や家具を購入し、それらを配置する為に、連日通い詰めていたのだからよく覚えている。(まてよ……。確かあのベッドルームには確かにクローゼットはあるが、大した大きさじゃなかったよな?)琢磨はそのことを思い出し、朱莉に尋ねた。「あの……奥様の衣類は全て、そのクローゼットで収まっていると言うことですか?」「はい。そうですが?」「副社長からはカードを預かっておりますよね? それで自由に買い物をするようにと言われていたと思いますが?」すると朱莉は顔を赤らめる。「確かにそう言われましたが、翔さんのカードをお借りして買い物をするのは何となく気が引けて……それで自分の分は月々の手当から買っていました」琢磨はそれを聞くと胸がズキリと痛んだ。(そこまで彼女に気を遣わせてしまっていたなんて……!)「それは副社長が奥様に使っていただきたいと思い、渡されたカードです。書類上の結婚とは言え、奥様は正式な副社長の妻なのです。なのでどうか遠慮されずにそちらのカードで必要な物は全て購入されてください。そして月々振り込まれるお金は……これは私個人の意見ではありますが、将来の為に貯金されることをお勧めします」「九条さん……」「申し訳ございません、余計なことを話してしまいました。どうやら私が持ってきた服は必要無かったようですね。このまま持ち帰らせていただきます。それともう一つ確認を取らせていただきたいのですが、食器類なども全て
部屋でPCを前に通信教育の勉強をしていた朱莉のスマホに電話がかかってきた。着信相手は琢磨からだったのだ。「え……? 九条さん? すぐに出なくちゃ」朱莉はスマホをタップすると電話に出た。「はい、もしもし」『ご無沙汰しています、九条です。この間は写真の件で無理を言ってしまい、大変申し訳ございませんでした』「いえ、別にそれ位はどうということはありませんから。あ、もしかしてその件でわざわざお電話を?」『いえ、違います。実は大変急な話で申し訳ございませんが、今ご自宅の前におります。もしご都合がよろしければ少々伺ってもよろしいでしょうか? 奥様に大切なお話があります」(え? もう家の前に……? どうしたのかな?)いつも用意周到な彼にしては珍しい事だと朱莉は思った。だが……。「はい、大丈夫です。今玄関を開けますね」玄関へ向かい、念のためにドアアイで確認すると、大きな紙袋を手にした琢磨の姿があった。(え? あの荷物何だろう……?)朱莉は急いでドアを開けた。「こんにちは、お会いするのはお久しぶりですね。突然訪問してしまい、申し訳ございません」琢磨は深々と朱莉に頭を下げた。「い、いえ……。大体は部屋におりますので、どうぞ気になさらないで下さい。それで、今日はどのようなご用件でしょうか?」「ええ。じつは会長が近々日本に一時帰国されるそうです」「え? 会長って……翔さんの御爺様ですよね?」「はい、そうです。それで一度、副社長に自宅を訪問したいと伝えてきたそうなんです」「! そ、そうですか……」ああ、ついにこの日がやって来てしまったのかと朱莉は思った。いずれは翔の親族が客として訪れるだろうと言うことは覚悟していたが、いざそれが現実化されるとなると、朱莉は不安な気持ちで一杯になった。思わず俯く朱莉に琢磨は謝ってきた。「申し訳ございません」「え?」「いずれ会長がこちらにお越しになるのは分かり切っていたことだったのに……問題を先送りしておりました」「問題……?」「はい。恐らく会長はお2人の新居での生活の様子を知りたいと思っているはずです。しかし実際にはお2人は一緒に住んだことも、それどころか副社長はこのお部屋にすら入ったこともありませんよね?」「は、はい。その通りです……。あの、それは私が翔さんにあまり良く思われていないから……だと思います
――ピンポーン インターホンを押すと、ドアが開けられて不機嫌そうな明日香が顔を覗かせた。「……随分早かったのね。琢磨」明日香は露骨に嫌そうな視線を琢磨に向けるが、それを気にも留めずに琢磨は言った。「ああ、急いでここへ向かったからな。それじゃ中へ入らせて貰うよ」「ちょ、ちょっと……!」明日香の非難する声も、ものともせずに琢磨は部屋に上がり込むと、翔の衣服やらスーツを片っ端からクローゼットから出していく。「な……何するのよ! 琢磨!」明日香は琢磨が翔の背広に手をかけた時、片側の袖を掴んで引っ張りながら抗議した。「翔の服を何処へ持って行くつもりよ!」「それを俺に聞くのか? 明日香ちゃん。翔から聞いたぞ? 昨夜会長から連絡が入ったそうだな? 近々日本に一時的に帰国するそうじゃないか。それで朱莉さんと翔の新婚生活の様子を見たいって言言われたんだろう? 恐らく朱莉さんは翔の日用生活品は用意してるだろうが流石に服までは用意していないはずだ。だからこの部屋から翔の服を朱莉さんの部屋に移動させるのさ」琢磨はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。「な……何ですって……! 彼女の部屋に翔の服をですって? 嫌よ! そんな事させないわ! 翔の服なら彼女が適当に買って用意すればいいでしょう?」「随分無茶な事を言うんだな? 女性が1人だけで男性用の服やら下着をほんの数日で揃えきれると思ってるのか? 何せ、お前達兄妹が着ている服は全てブランド品ばかりだしな?」「ちょっと! 私と翔を兄妹って言わないでよ!」明日香はヒステリックに叫んだ。「何がいけない? 世間的には明日香ちゃんと翔は血の繋がりは無いが、戸籍の上では立派な兄妹だ。会長だってそれを分ってるからお前達の結婚を認めていないんだろう? いいか? 今から俺がやろうとしていることに文句を言ったり、この件で朱莉さんに言いがかりを少しでもつける様なら、俺は全て会長に報告するからな? 2人の結婚が偽装だと言うことも、偽造結婚に関する契約書だって全てな。あれを作ったのはこの俺だ。それらを全て会長に証拠として提出する。そんなことになれば明日香ちゃんも翔も終わりだぞ? きっとそれらが知れたら会長はお前達を許さない。翔に会社を継がせるって話も消えて無くなるかもしれないぞ?」(尤も俺自身だって終わりには違いないだろうけどな……)琢磨は
朱莉から自撮り写真の画像を受け取り、写真を加工編集して貰った翔は写真が出来上がったその日のうちに、祖父にメールに添付して送った。祖父からはモルディブのハネムーンを楽しめたようで良かったなと後日メールが入ってきたので、翔は一安心していたのだが……。****「おはよう……って何だよ! 朝っぱらから辛気臭い顔して……」オフィスに入って来た琢磨は難しい顔つきでデスクに座っている翔を見ると驚いた。それ程翔は髪が乱れ、酷い顔色をしていたのである。「あ、ああ……おはよう、琢磨」翔はぼ~ッとしていたが、琢磨に気付くと、顔を上げた。「おいおい……しっかりしてくれよ。今日は取引先と商談があるんだろう? あんまり聞きたくは無いが、一応聞いておく。……昨夜、明日香ちゃんと何かやりあったな?」琢磨は背広を脱ぐと、椅子に掛けた。「まあな、多少は……。だが、問題はそこじゃないんだ」翔は溜息をついた。「何だよ、だったら早く言え。それで何があった。早いとこ今抱えている問題を解決しなければ、午後の大事な商談に影響が出てしまうだろう?」バンと机を叩く琢磨。「そうだな……言うよ。実は会長が1週間後……日本に一時的に帰国してくるんだ」「え? そうだったのか? 初耳だな。それは昨夜決まったことなのか?」「ああ。……そうだ」「ふ~ん……それで明日香ちゃんが荒れたわけか。明日香ちゃんは子供の頃から会長とは反りが合わないって言ってたものな」「いや。明日香が荒れていたのはそれだけが原因じゃないんだ……」「何だ? まだ何かあるのか?」「会長……祖父が俺と朱莉さんの新婚生活の様子を見たいから……新居に遊びに来ると言ってきたんだよ。ひょっとしたら、あのモルディブでの写真に何か違和感を感じたかもしれない……だからだろうか?」翔は両手を組んで、顎を乗せると考え込んでいる。「だから俺はお前が写真を画像加工に出すとき言ったんだ! 会長は勘のいいお方だ。下手な小細工をしても嘘はバレるぞって。何か怪しいと思われたんじゃないのか? でもな、翔。それはお前の自業自得だからな? 最初から明日香ちゃんが文句を言おうが何しようが、モルディブでちゃんと朱莉さんとの写真を撮っておかなかったお前の責任だ。明日香ちゃんの矢面から朱莉さんを守る為に、波風立てたくないって一度俺に言った事があるが……俺から言わせ
「ちょっと待てよ、翔! そもそも2人でモルディブへ行った証拠を会長に見せる為に行った旅行じゃ無かったのか? 何故お前と朱莉さんのツーショットが無いんだよ!」「明日香が……常に一緒だったから朱莉さんとの2人で映る写真を写す事が出来なかったんだ……」「朱莉さんにはお前と明日香ちゃんのツーショットの写真を何枚も撮らせて? 挙句には2人のキスシーン迄写させたんだろう? お前、一体何やってるんだよ!」琢磨は流石に我慢の限界で声を荒げてしまった。「ああ、そうだ。俺は本当に最低な男だ。明日香の御機嫌取りばかりして彼女を……朱莉さんを傷付けてしまった」「く……! ま、まあ過ぎてしまったことはもうどうしようもないが……。うん? 待てよ。もしかしてお前がさっき見ていたHPってまさか……!?」「ああ。朱莉さんの写真を借りて、そこの会社に画像の加工を依頼しようかと思ってるんだ。最短2日で仕上げてくれるそうなんだが……。それで琢磨から朱莉さんのモルディブで撮影した画像ファイルを送って貰えないか頼めないかと思ってって……琢磨、どうした?」琢磨が肩を震わせている事に気が付いた。「お、お前なあ! ふざけるな! いいかげんにしろよ! 自分が今何をやろうとしているか分かってるのか!? 会長に2人がモルディブ旅行へ行った証拠写真を見せなくてはならないので、朱莉さん。申し訳ありませんが、モルディブで撮影した朱莉さんの写真を拝借出来ないでしょうかって俺にその台詞を言わせる気かよ!」「そのまさかなんだ……」琢磨は怒りで顔が赤くなり、翔の顔色は青ざめている。何とも対照的な2人は暫く視線を交わしていたが……琢磨の方が折れた。「分かったよ……。俺から朱莉さんに頼んでみるが……いいか? 翔。後で必ず何らかの形で朱莉さんに詫びるんだぞ?」「ああ……分かってるよ」「全く、俺もどうかしてると思うよ。お前や明日香ちゃんのような奴と関わって……まるで悪魔の手先にでもなったかのような気分だよ。本当に朱莉さんが気の毒で堪らないよ……」琢磨の言葉に翔は項垂れた。「ああ……だから琢磨。お前には悪いが……朱莉さんに優しくしてあげてくれないか?」「翔、自分で何を言っているのか分かっているのか? 本来優しくするのは俺じゃなくてお前の仕事だろう? それを普通秘書の俺に言うか?」「悪いと思ってるよ。お前にも…
「はあ~……」モルディブ旅行から帰国して5日目、翔はPCに向かいながら大きなため息をついた。「何だよ。そんな幸せが逃げていきそうな大あくびをして。そんなだらしない姿を取引先に見られたらどうするんだよ。この会社は景気が悪いのかと思われるだろう?」同じくデスクで仕事をしていた琢磨が顔を上げ、翔を咎めた。「そんなこと言ったって、今俺は非常にまずい立場に立たされているんだよ」そして再び深い溜息をつく。「仕事で何か困ったことでもあったのか? だったら秘書の俺にまず相談するのが筋だろう? さあ、何だ。もしかして取引先と何かトラブルでもあったのか?」琢磨は翔のデスクに近付くとPCを覗き込む。「うん? 画像加工プリントサービス『フォトグラフ』……何だ、これは?」それは写真を修整、加工してくれるサービス会社のHPであった。「ああ……ちょっと写真を加工してくれるサービス会社を調べていたんだ」翔は頭を抱えながら再びため息をつく。「ふ~ん……。お前ひょっとすると今度は映像加工サービスの業界にも乗り出すつもりなのか?」琢磨の質問に否定する翔。「何言ってるんだ。そんなんじゃない。まあゆくゆくはそっちの業種に手を伸ばすのもありかもしれないが、今は全く関係ない」「じゃあ何の為に調べていたんだよ」すると、途端に翔の顔が曇った。「実は……」「うん?」「会長から……メールが届いたんだ」翔は重そうに口を開く。「メール? どんな内容なんだよ。その表情からすると厄介な案件なのか? ひょっとするとこの間の特許志願が通らなかったとか?」「違う! そんなんじゃないんだ……。個人的なことだよ」「個人的なこと……? お前自身についてか?」「ああ」「そうか、なら問題解決に向けて頑張れよ」琢磨が背を向けてデスクに引き返そうとするのを翔が引き留めた。「琢磨! お前に頼みがあるんだ……聞いてくれるか?」「はあ~。ったく……またかよ。お前の頼みはいつもろくな頼みじゃ無いんだからな……」「そこを何とか頼む! 朱莉さんについてのことなんだ……」「朱莉さんについてのこと?」「以前言ってくれただろう? 朱莉さんを紹介したのは自分にも責任があるから協力するって」「おまえなあ……俺は確かに責任はあると言ったが、協力するとまでは言ってないぞ? 勝手に話の内容を変えるなよ」「駄
「昔ね……私には日本にいた時恋人がいたのよ。彼は海がすごく好きな人でサーフィンが得意な人だったの。そしていつかモルディブでサーフィンをしたいってよく言ってたっけ……」エミはいつしか遠い目をしながら星空を眺めている。「ある日、2人でサーフィンに海に出たんだけど、波がすごく高かったのよね。私はまだサーフィンが得意じゃ無くて、波に乗るのに失敗して……」エミは瞳を閉じた。「彼は必死になって溺れた私を助けてくれたんだけど……私を助けた為に力尽きちゃったのかな……。気付いたら彼の姿が消えていたのよ」「!!」朱莉は思わずエミの顔を見た。しかし、そこには何の感情も見せずに淡々とした表情のエミがいた。「彼は結局3日経っても見つからなくて、遺体が無いままお葬式をあげる事になってしまったの。だけど、私はどうしても彼が死んでしまったなんて信じられなくて……ひょっとすると、モルディブにサーフィンをしに来てるんじゃないかなって馬鹿な考え迄持ってしまったのよ」エミは俯いた。「彼はよく言ってたの。いつか南十字星が見える場所で2人で一緒に見つけようって。彼はね、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の小説が好きだったのよ。それで、私もその小説を手にして、サザンクロスの話が目に止まったの」「エミさん……」朱莉も銀河鉄道の夜の話はよく知っていた。主人公ジョバンニと彼の親友カムパネルラが銀河鉄道に乗って旅をする話……。(物語の終盤で、銀河鉄道に乗っていた乗客が天上と呼ばれるサザンクロスの駅で降りてしまうんだっけ……。そして結局、カムパネルラは現実世界で友人を助ける為に川に入って、溺れて死んでしまった……)「彼が行きたがっていたこの島で、サザンクロスが見えるこのモルディブに来れば……彼に会える気がして私は1人でこの島へやって来たの。でも本当の事を言えば死に場所を求めていたのかもね」「!」朱莉はあまりにもショッキングな話に言葉を無くしてしまった。「だけど、そんなボロボロになってしまっていた私を救ってくれたのが今の主人って訳よ」突然エミはそれまでのしんみりした様子から、明るい笑顔になる。「あのね、アカリ。私、少しだけ、クジョウタクマって人と電話で話したのよ。だから貴女の複雑な事情も少し知ってる。その上で話をさせて貰うけど。アカリ、貴女……本気で偽装結婚の相手のこと、好きなんでしょう?
あの日の夜から数日が経過していた。朱莉は日本に帰るまでの残りの数日をガイドのエミと楽しく過ごした。2人で海に泳ぎに行ったり、シュノーケリングをしたり。ボートに乗って初めてイルカと遭遇した時は感動のあまり中々眠りにつく事すらできなかった程だった。 そして今夜がモルディブ最後の夜。朱莉はエミに夜のビーチに誘われた。「アカリ、モルディブに来たなら絶対にビーチで星空を見ておかなくちゃね。考えたら今まで一緒に夜空を見上げた事が無かったじゃない」エミは持参してきた缶ビールを朱莉に手渡した。2人で乾杯をして、良く冷えたビールを飲み、ため息をつくと朱莉は夜空を見上げた。「すごく星が綺麗ですね。あんまりこの島へ来てから星空を眺める事が無かったので。まるでプラネタリウムを見ているみたいで最高の気分です」朱莉は笑った。「あら、中々良い表現をするのね?」エミはビールをゴクリと飲み干して星を眺めている。「それにしても……すごくこれって日本では贅沢な事かもしれないですね。この島だから出来る事なんですよね……」満天の星空から、朱莉は目が離せずにいた。「ねえ……アカリ。私、いいものを持ってきてるんだ」「え? いいものって何ですか?」「ほら、これよ」エミがカバンから取り出したのは星座表だった。「え……? これって確か星座表ですよね?」「うん。これで2人で一緒にサザンクロスを見つけましょ!」エミは目をキラキラさせている。「サザンクロスって……もしかして南十字星ですか? 素敵……あの日の夜から数日が経過していた。朱莉は日本に帰るまでの残りの数日をガイドのエミと楽しく過ごした。2人で海に泳ぎに行ったり、シュノーケリングをしたり。ボートに乗って初めてイルカと遭遇した時は感動のあまり中々眠りにつく事すらできなかった程だった。 そして今夜がモルディブ最後の夜。朱莉はエミに夜のビーチに誘われた。****「アカリ、モルディブに来たなら絶対にビーチで星空を見ておかなくちゃね。考えたら今まで一緒に夜空を見上げた事が無かったじゃない」エミは持参してきた缶ビールを朱莉に手渡した。2人で乾杯をして、良く冷えたビールを飲み、ため息をつくと朱莉は夜空を見上げた。「すごく星が綺麗ですね。あんまりこの島へ来てから星空を眺める事が無かったので。まるでプラネタリウムを見ているみたい
「ほらアカリ。動いちゃダメよ、メイクが出来ないでしょ?」朱莉は今、部屋を訪れてきたエミに化粧をされていた。「で、でも……こんな姿。は、恥ずかしくて……」朱莉は消え入りそうな声で俯くと、エミに顔を上げられた。「コラ、下向かないの。メイクが出来ないでしょう?」それから約20分後――「はい、出来た。完成~! あっちに行って鏡を見てごらんなさい?」無理矢理エミに手を引かれ、朱莉は全身が映る鏡の前に立たされて息を飲んだ。「こ……これが私……?」大きな花柄のブルーのノースリーブのワンピースに、緩く巻き上げた髪、そしてアイシャドウにグロスを塗った顔はとても自分とは思えなかった。「ほら~もともと貴女は美人だったけど、3割増し位美人になったわ。さ、それじゃ行くわよ」朱莉の細い腕を掴むエミ。「え? ええ? 行くって……一体何処へ!?」「勿論! 素敵な大人が行く店よ?」エミはパチリとウィンクした。****「あ、あの……私、こんなお店来るの初めてなんですけど……」朱莉はエミに耳打ちした。エミが連れてきたのは高級ショットバーの店であった。客は全て外国人観光客ばかりで、誰もが高級そうな服をみにつけている。「ほら、アカリ。貴女すごくキュートだから皆に注目されてるわよ?」「え? そ、そんな……!」朱莉の顔が真っ赤に染まる。「さあ、アカリ。何を飲む? ……あ、そうだったわね。英語表記だったから……いいわ、私が適当に頼むからね!」エミの注文で、あっという間に2人のテーブルは様々なカクテルで埋め尽くされた。「さあ! ジャンジャン飲んでね!」エミはグイグイと朱莉にアルコールを進めてくる。素直な朱莉は言われるままにカクテルを飲み続け……とうとうテーブルに突っ伏してしまった。「ねえねえ。アカリ……大丈夫なの?」エミが心配そうに朱莉を揺する。「あ……ハイ。大丈夫ですよ~」しかしその目はトロンとし、頬は赤く染まっている。「う~ん……困ったなあ。アカリ、ちょっとだけ電話してくるから、じっとしてるのよ?」エミはタクシーを手配する為に店の外に出た。そして朱莉が1人になった所を男性客が近付いて行く……。その外国人客は舌なめずりをしながらテーブルに突っ伏している朱莉の肩に手を置こうとして、1人の東洋人観光客に止められた。『お前……その女性に何をしようとし